織田信長は南蛮人宣教師との付き合いを密にし、比叡山焼き討ちのように日本の伝統を重んじない、新しもの好きな性格だと思われている方が多いような気がします。
実際は、神仏や風習、昔ながらの取り決めといったものに自分の考えを左右されず、決して珍しいからといって外国人である南蛮人宣教師たちと関係性を深めた訳ではありませんでした。
織田信長が南蛮文化を積極的に取り入れた理由
織田信長がルイス・フロイスと最初の会見をもったときの言葉が残っています。
「織田信長はただちに質問した。年齢はいくつか、ポルトガルとインドから日本に来てどれくらいになるか。どれだけの期間、勉強したのか。ヨーロッパやインドから毎年手紙を受け取るか。布教がうまくいかなかった場合でも日本に留まっているつもりなのか?」
織田信長が重要だと考えていたのは最後の質問だと考えられます。
少しうまくいかなかったからといって日本を去るようであれば、織田信長の思惑にそわないからです。
ヨーロッパ船との貿易利益のため:織田信長が南蛮文化を取り入れた理由1
織田信長が南蛮文化を取り入れた理由として、「南蛮人との貿易を積極的に行うことで貿易利益をあげることができるから」と考えられます。
織田信長は経済を活性化することに才能があり、「楽市・楽座」を普及させたことはとても有名ですね。
戦国時代、海外との貿易で利益をあげ国力を強くし、戦が有利になるような準備をした武将はいますが、多くが南蛮人宣教師の力が上となっていたのに対し、織田信長は完全に南蛮人宣教師を支配下においていたと考えられます。
貿易で利益を得ることと共に鉄砲や外国製の防具なども手に入れていたため、天下統一のために行った政策の一つであり、決して新しいものが好きだから南蛮貿易を進めていた訳ではありません。
こういった面からも、織田信長は合理主義で実利主義だと感じます。
勢力を強めていた仏教勢力を抑えるため:織田信長が南蛮文化を取り入れた理由2
織田信長が南蛮人宣教師が最大の目的としていた「キリスト教の布教活動」を支持したことは有名ですが、織田信長が活躍した時代に勢力を強めていた「仏教勢力」を抑えるためだとの見方ができます。
当時、一部の仏教勢力は武装組織化されていたため、織田信長など戦国大名と変わらない戦いをしていたそうです。
有名なところでは「一向一揆」がありますね。
キリスト教の布教をバックアップすることで信者を分散化し、仏教勢力の力を減退させることが織田信長の狙いだったようです。
織田信長自身はキリスト教に対して全く気持ちが向かず、九州のキリシタン大名のように洗礼をうける、といったことはありませんでした。
南蛮文化やキリスト教を自分が天下統一するための「手段の一つ」として利用する姿は、したたかですがある種の恰好よさがありますね。
織田信長が南蛮文化を取り入れた理由のまとめ
歴史上では、「島原の乱」などのキリシタン大名との戦いや江戸時代の鎖国政策などで、日本で外国文化は受け入れられていないイメージが強いですが、決してそのようなことはありませんでした。
織田信長のように南蛮人と積極的に関わりをもった戦国大名は多いのですが、政治的に有効活用できたのは織田信長だけだと考えられています。
天下統一までの道のりを明確にイメージすることができていた織田信長は、活用できるものを目利きする名人だったのかもかもしれません。