織田信長が今川義元を破った桶狭間の戦いでは、常識から考えるとほぼ勝負は見えていた戦いでしたが、織田信長の戦略により世紀の大波乱が起きた合戦でした。
今回は桶狭間の戦いで劣勢だった織田信長が勝利した理由を考えます。
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織田信長が桶狭間の戦いで勝てた3つの理由
今川義元は合理的な軍事改革等で治めていた領地を潤わせ、「東海一の弓取り」と言われた優れた戦国大名です。
桶狭間での戦いでは「余裕をもちすぎて不意を突かれて負けた」「太りすぎていて馬にも乗れず逃げられなかった」などという話もありますが、信長公記をはじめ、さまざまな資料を元に考えると素晴らしい人物であったことは間違いないです。
桶狭間の戦いでは織田信長側もかなりの被害を出し、どちらが勝つか分からない状況だったと考えられます。
ほんの少しの違いがあるとしたら下の3つの理由です。
織田信長は味方を欺いていた
桶狭間の戦い前日の夜、清洲城で織田信長と家老衆は談話をもちましたが、作戦に関する話題は少しも出ずに雑多な世間話だけだったそうです。
これには家老たちも「運の尽きる時には知恵の鏡も曇るというが、今がまさにその時だ」と自分たちの命運を自虐的に(?)笑い、織田信長に対してあきらめの感情を抱いていたようです。
織田信長はこの辞典で奇襲作戦以外に今川義元を破る方法がないことが分かっていましたが、軍議の結果が今川義元側に漏れることを嫌って指示を出さなかったのでしょう。
若いころは「大バカもの」を演じていたのではないか?という仮説も本当のことかもしれませんね。
参考記事:織田信長が父親の葬儀で位牌に抹香を投げつけた本当の理由とは?
家臣の制止を振り切り、合戦の意味を念入りに説明
織田信長が奇襲作戦を実行しようとしていたときに家老衆から「この道は両側がぬかるんでおり一騎ずつしか通れません。軍勢が少数であることを敵側にはっきりと見られてしまうので、このまま進むのは危険です」と進言されましたがいうことを聞きませんでした。
織田信長が家臣たちに説明した内容は「今川義元側は夜通し行軍し疲れている。こちらは気力体力は十分。敵の武器などぶんどらずに合戦に勝つことに集中しろ!合戦に勝てば、末代まで胸を張れるぞ!」といったものでした。
今でいうコーチングのような効果があったものと思われます。
激しいにわか雨によって行軍が見つからなかった
突然のにわか雨のおかげで、織田信長の家老衆が心配していた敵側に織田信長側の戦力がバレることがありませんでした。
この雨がなければ織田信長が桶狭間の戦いに勝つことはなかったかもしれません。
桶狭間の戦いの最後
織田信長自身も馬をおり、若武者たちと先を争うように敵を倒していったようです。
織田信長の身長は当時の先人男性の平均身長より10cm以上高かったと言われているので、桶狭間での戦いは目立ったことでしょう。
東海一の弓取りと言われた今川義元は、桶狭間で命を落としました。
織田信長が大事な合戦に勝利したことは、天下統一を進める大きな一歩となりました。