織田信長の性格が分かるエピソードとして、父親の葬儀の場で位牌(いはい:死者の名前などを記した木の板)に抹香(まっこう:香のひとつで粉末状の香)を投げつけたという話が有名ですが、単に織田信長の性格が悪かっただけなのでしょうか?
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織田信長はなぜ位牌に抹香を投げつけた??
織田信秀の実績と志
織田信長の実父である織田信秀は、守護代として尾張(愛知県西部)を任されていた織田氏の一族でした。
元々は守護代としての地位を争っていた織田大和守(おだやまとのかみ)に使える三奉行の一人でしたが、港町として栄える「津島」を掌握し、経済的利益を吸収できたことなどが背景にあり、尾張の実力者としてのし上がってきました。
織田信秀は尾張統一支配をめざし国内だけではなく三河(愛知県東部)、駿河(静岡県中部、北東部)、美濃(岐阜県南部)といった隣国との戦いに明け暮れていました。
若き織田信長にのしかかったプレッシャー
そんな織田信秀は脂ののった40歳前半、43歳で流行病にかかり急に亡くなりました。
経験豊富で飛ぶ鳥を落とす勢いだった織田信秀亡き後、当時18歳の織田信長が家督を次ぐ事になり、大事業を成し遂げる直前の事業を引き受ける事に成った若い織田信長のプレッシャーは相当なものだったでしょう。
織田信長が味方を欺くための演技か性格か?
織田信長にかかるプレッシャーは大きなものでしたが日々鍛錬を積み準備をしていたのは間違いなく、家督を継いだ後の発展を考えると特にこの時点で何か問題があった訳ではなさそうです。
その頃、町中で「大バカもの」と思われていた行動をとっていた織田信長は、もしかしたら人々を欺くためにわざと奇抜なファッションや行動をしたのではないかと記事に書きました。
織田信長は真面目な性格だった!? 青年時代の記録織田信秀の葬儀の罰当たりな行動も、もしかしたら味方を欺くための演技だった可能性があります。
もしかしたら単純に感情が高まりやすい織田信長の性格が若い頃は多く出ていただけかもしれませんが、、
後に実弟である織田信行と家督争いをすることになりますが、あまりに優秀である事を全面に出すと早くから身内のなかで標的となる可能性があり、それを避けるためにわざと愚者を演じていたのかもしれませんね。