織田信長と歴史

「大航海時代の邦人 海外婚」読売新聞の記事から考える織田信長の時代

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織田信長と日本人奴隷

今日の読売新聞の35ページに大きく「大航海時代の邦人 海外婚」という記事が掲載されていました。
内容は大航海時代の1573年に元奴隷の日本人同士がポルトガルの教会で結婚式を挙げた記録を日本人の研究グループが発見したという記事です。

この年は、織田信長と室町幕府将軍の足利義昭との仲が非常に悪くなり、足利義昭を追放したため室町幕府が事実上滅んだ年です。

参考記事:織田信長の年表で見る天下統一への展望

今まで正式な記録には残されていませんでしたが、かなりの日本人が奴隷としてポルトガルに連れて行かれていた可能性を示唆する研究があり、今回は日本人が奴隷として売買されていた証拠となりそうです。

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なぜ日本人がポルトガルに奴隷として渡欧していたのか?

日本の歴史教科書では私の知る限り大々的に日本人が奴隷として売買されていた事実を載せていないと思います。

織田信長も事実を知らなかったのかもしれません。 ※知っていて見て見ぬふりをしていたか、、

参考記事:織田信長は新しもの好きはウソ!?南蛮文化を取り入れた理由

ですが、多くの資料から織田信長が活躍した戦国時代に奴隷として日本人が売買されていた事実が浮かび上がっており、今回の読売新聞の記事により今後の歴史認識に変化がありそうです。

スペインやポルトガルは16世紀後半、東南アジアで日本人を含む奴隷貿易を行っており、今回発見の日本人もその一環で欧州に運ばれたとみられる

と読売新聞は記載しています。

では、なぜ日本人は奴隷として売買されなければならなかったのでしょうか。

鉄砲伝来と密接に関わっていた日本人奴隷売買

1542年、種子島に鉄砲が伝来したことから、日本における戦の方法が変わっていきました。

1575年に織田信長が長篠の戦いで武田の騎馬隊を打ち破ったのは3段構えの鉄砲隊がいたおかげだ、という話は有名ですね。

長篠の戦い時に使われていた鉄砲は、ほとんどが国産のものだといわれています。

日本人はとても器用なので鉄砲を一から生産し量産することができるようになっていましたが、どうしても生産できないものが「火薬」でした。

火薬の材料を得るために日本人は奴隷として売られていた可能性が

火薬の原材料は硝石で、これは日本で産出されず、外国からの輸入に頼る必要がありました。

鉄砲を戦闘に活用することで戦を有利にできることは誰でも分かるので、いかに鉄砲を生産できる体制を作るか、火薬の材料となる硝石を海外から手にいれるか、といったことを戦国大名は考えて行動していたと想像できます。

歴史の教科書によく出てくる「キリシタン大名」の多くが、火薬を獲得したいがためにポルトガル宣教師と手を組んでいたのではないでしょうか。

豊臣秀吉のバテレン追放令

1587年には豊臣秀吉によりバテレン追放令が出されています。

豊臣秀吉は古い考えが基準となり、織田信長とは違い新しいものを受け入れたくないからこのような手段をとった、とも言われています。

豊臣秀吉は奴隷売買の実態や、ポルトガル宣教師が日本で力を持つことで植民地化を狙っている可能性なども想定し、このような対応をしたのかもしれません。

歴史の新たな事実が発見される面白さ

元奴隷の日本人同士がポルトガルの教会で結婚式の記録発見は、今まで見落とされていただ歴史の事実を明らかにする大きな証拠となります。

このような新たな発見があるから、「もしかしたら本当の歴史はこうだったのでは?」と深く想像の世界に入り込むことができる楽しみもありますね。

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