足利義昭は織田信長のおかげで将軍となることができた室町幕府最後の将軍です。
将軍になれたのも織田信長のおかげ、幕府を滅ぼされたのも織田信長、と織田信長との因縁はすごいものがあります。
そんな足利義昭についてまとめてみます。
足利義昭(あしかがよしあき):室町幕府最後の将軍
足利家について
源氏の血をひく家柄である足利家は、鎌倉幕府を開いた源頼朝に仕え、幕府の実権を握っていた北条氏とも懇意にしていました。
1331年に後醍醐天皇が鎌倉幕府を打ち倒すべく兵をあげると、足利尊氏が天皇にしたがって一番の功績をあげました。
その後すぐに後醍醐天皇と対立し、南北朝の戦いへとつながります。
1338年、足利尊氏は征夷大将軍に任命され、室町幕府が開かれることになりました。
3代将軍の足利義満時代に南北朝の対立は終わり、有力な守護大名を支配し幕府を安定させることに成功します。
その後の足利氏は内部での権力争いが激化し、いつの間にか幕府の実権を管領である細川氏に奪われてしまいました。
足利義昭について
1537年室町幕府12代将軍の足利義晴の次男として生まれた足利義昭は、幼い頃から興福寺一乗院の僧として育てられ1562年には一乗院のトップとなっています。
1565年に13代将軍の兄義輝が松永久秀や三好勢に討たれると、足利義昭も寺に閉じ込められています。
細川幽斎らによって救い出されると、足利義昭は僧の身分を捨てて越前の朝倉義景に助けを求め、身を寄せています。
朝倉義景のちからで将軍になろうと目論んでいた足利義昭ですが、朝倉義景は動こうとしません。
そこに織田信長から上洛の話がもちこまれたので織田信長にのっかることとしました。
1568年に足利義昭は織田信長と共に京都に入り、無事将軍となることができたのです。
足利義昭と織田信長の目線
将軍となった足利義昭は弱体化していた室町幕府を立て直し、さまざまな政治を行おうとしましたが、織田信長が邪魔をします。
織田信長は自分の思うがまま動く将軍を手に入れたかった訳で、室町幕府再興を考えていた足利義昭とは目線が違うものでした。
足利義昭は武田信玄や朝倉義景などと手を結び、織田信長包囲網が出来上がります。
結果として織田信長に敗れた足利義昭は1576年に毛利輝元の元に身を寄せます。
その後、織田信長が本能寺の変で倒れ豊臣秀吉が天下をとると、足利義昭を利用して将軍になろうとした豊臣秀吉に逆らい出家します。
まとめ
室町幕府再興という夢を追い求めていた足利義昭ですが、織田信長という強力な個性の前では実現できませんでした。
それでも、操り人形となることを拒み、織田信長を追い詰めていた足利義昭は弱体化していた室町幕府の中では、突出した人物だったことが伺えますね。