織田信長が足利義昭を奉じて入洛した前後3ヶ月間は、織田信長の手腕が発揮された怒涛の3ヶ月でした。
入洛するための手はずは出来る限り整えていたのはもちろん、途中で立ちはだかったものを排除しつつ、入洛後も集めた軍勢を活かして一気に領国を増やしています。
さらに京に滞在している間、経済と政治面の手腕も発揮している織田信長。
天下を取るに相応しい動きでした。
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織田信長の緻密さが伺える足利義昭上洛前後の動き
朝倉義景のもとに身を寄せていた足利義昭は1568年(永禄11年)に織田信長を頼ることを決心します。
足利義昭は武田信玄、上杉謙信が動いてくれることを期待していたようですが2人とも動かず、とうとう織田信長にチャンスがやってきたのです。
足利義昭上洛への道筋
7月12日:足利義昭が上杉謙信に文書で織田信長を頼ることを伝える
7月16日:織田信長と同盟関係にある浅井長政の元に到着する
7月25日:織田信長が美濃の立政寺で足利義昭を迎える
7月29日:織田信長が上杉謙信に対し足利義昭を奉じて上洛する決意を伝える
上杉謙信宛の書状の中で、足利義昭を奉じて上洛することを決めたことと、武田信玄もそれを妨害しないため徳川家康と和議を結んだことを下記、上杉謙信も天下のことを考え武田信玄と講和してほしいと伝えています。
このように織田信長は上洛するために関係者に対して調整をかけていました。
六角承禎が立ちふさがる
8月7日:六角承禎の意向を確認するため近江佐和山城に出向くが、六角氏は応じず
9月7日:織田信長が尾張、美濃、伊勢の大群を率いて六角承禎を攻めるため出発
9月8日:近江に入り、浅井長政の軍勢と合流する
9月12日:六角承禎の支城「箕作城」を攻め落とす
9月13日:六角承禎は観音寺城を捨てて逃げる
9月26日:足利義昭を奉じて入京に成功
織田信長は入京後も攻めまくる
9月29日:織田信長の軍勢が山城国勝竜寺城を攻め、摂津にまで兵を進める。摂津、河内の諸城がほとんど織田信長の軍門に降りる
10月はじめ:松永久秀が名器九十九髪を織田信長に進上して降伏
足利義昭が将軍に
10月18日:足利義昭が征夷大将軍に任命される
10月23日:足利義昭は織田信長に感謝の意を表すため能楽を実施
10月24日:足利義昭は織田信長に対しお礼状を出す。その際の宛名は「御父織田弾正忠殿」
10月28日:織田信長が岐阜城に戻る
京都滞在中に織田信長が実施した施策
・諸国の関所を撤廃
・検地を実施
・大和、和泉の自社などに矢銭(軍事費)を課す
石山本願寺は五千貫、堺は二万貫。堺は拒否するものの、今井宗久の働きなどで翌年に織田信長に屈服する。
短期間でこれだけの仕事ができた織田信長は、戦だけでなく政治経済にも優れた戦国大名だったと、改めて感じますね。