織田信長は兵を雇うだけでなく数々の職人を雇い土木工事から築城まで戦国時代一の力をもっていたとされています。
織田信長も雇った石工職人集団「穴太衆(あのうしゅう)」の子孫が、天空の城と言われている「竹田城跡」の石垣を修復することがニュースになっています。
穴太衆(あのうしゅう)とは
穴太衆の起源は、788年、最澄が比叡山延暦寺(大津市)を開いた際、急斜面の基礎工事や参道工事に動員された石工職人集団とされる。
現在の大津市穴太付近に拠点を置いていた。織田信長や豊臣秀吉に高い技術を買われ、安土城や大坂城などの石垣構築にも関わったと伝えられる。
穴太衆の期限は8世紀ということで、平安京が遷都される少し前とかなり歴史が深いですね。
その後も技術を磨き、織田信長に雇われることになった穴太衆がいたからこそ、安土城や大坂城ができたのですね。
穴太衆の技術の凄さ
穴太積みは、採掘された大小の石をバランスよく配置し、石垣の裏側から「栗石(ぐりいし)」と呼ばれる小石を更に詰めることで、石一つ一つにかかる圧力を分散させるのが特徴だ。
石垣の裏側から小石を詰める技術というのは、なかなか一朝一夕ではできない技術だと想像できますね。
詳しい仕組みは分かりませんが、圧力を分散させることを経験と想像力で培った技術は素晴らしいと思います。
穴太衆の子孫が行う仕事
現在は、穴太衆の子孫で厚生労働省の「現代の名工」にも選ばれた建設会社会長、粟田純司さん(73)=大津市坂本=が社員ら4人に技術を継承する。
粟田さんらは各地の城の石垣修復だけでなく、新名神高速道路の工事にも技術を生かしている。滋賀県内のトンネル工事で出た石でのり面を造ることになり、粟田さんらが石積み作業を担当。コンクリートを超える強度になったという。
石垣だけでなく、その技術を高速道路工事に活かすことができ、コンクリートを超える強度を作るとは、技術力の高さが分かるエピソードですね。
さすが現代の名工です!
穴太衆が仕事をする竹田城の修復事情
竹田城は1443(嘉吉3)年に完成し、1600年ごろに石垣の城郭が築かれたとされる。秋から冬にかけ気象条件によって、雲海に石垣の城跡が浮かぶ姿で人気を集める。観光客が急増し、石が突き出るなど石垣の傷みが目立ち始めたため、管理する朝来市が修復を決定した。粟田さんの指導で、長男純徳さん(45)らが天守台東側で、特に傷みが目立つ幅10メートル、高さ2メートルの範囲を修復することになった。
竹田城の人気は爆発しているようですね。
ニュースでよく見ますが、朝の7時で大混雑のようです。
ブームが一段落した頃、穴太衆の仕事ぶりを確認するためにも行ってみたいです。