織田信長が黒人「弥助(ヤスケ)」を家来とし、本能寺の変で織田信長が自害する際も最後まで黒人ヤスケが織田信長と共に戦ったという話は有名ですが、その当時の世界情勢と奴隷制度についてまとまった情報があまりないのでまとめてみます。
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織田信長の黒人家来「弥助」と世界情勢
ポルトガルの世界進出
弥助を奴隷として連れてきたキリスト教の宣教師「ヴァリニャーノ」はポルトガル人です。
初めて日本にきた誰でも知っている宣教師「フランシスコ・ザビエル」もポルトガル人で、当時日本に来ていた宣教師はすべてポルトガル人です。
ポルトガルの世界進出戦略とキリスト教(イエズス会)の布教活動が同じ方向を向いており、インドを拠点とした活動をアジアで行っていたことが理由です。
当時のヨーロッパではスペインとポルトガルが力を二分していましたが、スペインが西の地域をスペイン領、東の地域をポルトガル領としたことで実質はポルトガルだけがインドや日本で活動することができた、という背景があります。
ポルトガルがインド交易を重視していた理由
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ポルトガルは肉の保存と味付けのために不可欠な「コショウ」を求めてインドや東南アジアと交易をすることが大きな命題でした。
コショウはシルクロードを通りヨーロッパにもたらされており、その輸送が困難を極めたのでコショウ価格は上昇し続け、銀と同じ重さで取引されるほどになりました。
これに商機を見つけたポルトガルはインド洋交易を成功する必要があったのですね。
同時期にさかんになった宗教改革から生まれたカトリック系のイエズス会(キリスト教)はフランシスコ・ザビエルなど6人で結成したものですが、元軍人の「イグナティウス=ロヨラ」修道士が中心に結成されたもので、厳格な規律をもっていた組織です。
当時の宣教師は交易の上でも大きな力をもっていたので、労働力として黒人奴隷を使いインドとのコショウを中心とした交易を盛んに行っていましたが、日本にフランシスコ・ザビエルが来た目的は単なるキリスト教の布教だけではないことが、当時の世界情勢を考えると見えてきます。
ポルトガルは日本も植民地化しようとしていた!?
インドの一部はポルトガルにっよって植民地化されました。
大航海時代のポルトガルとスペインは圧倒的な火力を武器に次々と南アメリカやアフリカ、東南アジアを攻め落としていた背景があります。
当時は機械文明がありませんでしたから、何をするにも労働力が不足していたので、アフリカで捕獲した黒人を奴隷売買をするようになりました。
その一人が織田信長に使えたモザンビーク出身の黒人奴隷「弥助」ですね。
参考記事:織田信長には黒人の家来もいた!?常識にとらわれない織田信長に学ぶ3つの知恵
ポルトガルの宣教師は表向きはキリスト教の布教で日本に来ていますが、「教会を建て寺社仏閣をすべて焼き払え」といった強要を交易の見返りとして一部のキリシタン大名に対して行っていた可能性があります。
ポルトガル宣教師の切り札としては、日本ではほぼ生産できない火薬の原料となる「硝石」だったと考えられます。
参考記事:「大航海時代の邦人 海外婚」読売新聞の記事から考える織田信長の時代
多くの日本人が奴隷として売買されていたらしい文献もあるので、日本も危うく植民地化されるところだったかもしれません。
これにいち早く気付き防いだのは、「バテレン禁止令」を出した豊臣秀吉ですね。
織田信長がポルトガル人宣教師の活動をサポートしていましたが、それを制止しようとしたとも言われています。
この点はさすが世界を見ていた豊臣秀吉、といったところでしょうか。