織田信長は足利義昭に対し、織田信長が天下を手に入れるため操り人形としての役割を期待していました。
残念なことに足利義昭はとても頭が切れる謀略家で、織田信長の操り人形としてではなく自分が室町幕府を再興するという意欲に燃えていました。
足利義昭の手引により織田信長に反感のあるものたちが煽られ、織田信長は窮地に立たされます。
織田信長が越前の戦国大名朝倉義景を攻めた理由を説明します。
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織田信長が朝倉攻めをした理由
織田信長に反感を持つ多くの者たち
織田信長は上洛の前後で近隣の戦国大名、寺社仏閣、商業都市を抑えます。
戦国大名の多くは、上洛の際に4万もの軍勢が押し寄せたので否応なく織田信長の軍門に下りましたが、腹の中では成り上がりの織田信長に不平不満をもっているものが数多くいました。
寺社仏閣は関所の廃止や寺領の限定で収入が減ったのでわだかまりが残っていますし、商業都市では「楽市楽座」によって特権を奪われた座の商人たちが既得権益を奪われて頭にきています。
遠方では武田信玄や上杉謙信、毛利元就、朝倉義景といった軍勢が天下を虎視眈々と狙っています。
織田信長は大改革を次々と行っていきましたが、周囲には理解者ばかりではありませんでした。
足利義昭の謀略
織田信長に反感をもっていた勢力を決起させ、織田信長を挟み撃ちにしようと画策し実行に移したのが足利義昭でした。
足利義昭は彼らが決起しないことに苛立ちを感じ、自らが御内書(ごないしょ:室町幕府将軍が発給した私的書状の形式をとった公文書)を乱発します。
その内容は、「天下を思い正義を貴ぶものなら、近隣の領地争いなど即刻中断の上で上洛し、古きよき足利体制を破壊しようとしている織田信長を討つべきだ。」というものでした。
足利義昭が期待した「上杉謙信の上洛」
足利義昭が特に期待したのは、幕府に対する忠誠心が強い上杉謙信でした。
越後の土豪長尾家出身ですが関東管領の上杉家の名跡を継いだ上杉謙信は、足利幕府の忠臣として働くことを望みましたが、実際には武田信玄との戦いや関東への出兵、領国内での叛乱などがあり上洛の動きがとれずにいました。
ただ、上杉謙信が上洛の動きをすれば、その道筋に当たる越前の朝倉義景が共同して軍を出すことを約束したことが大きな前進でした。
「上杉謙信が上洛し、越前の朝倉義景が援助すれば織田信長などひとたまりもないだろう」と足利義昭は喜んだに違いありません。
織田信長の決意と朝倉攻め
織田信長としては、自分が将軍にしてやった足利義昭に牙をむかれたことに腹ただしく思いつつ、織田信長自身が担いで征夷大将軍にしているので、殺すことも追い出すこともできませんでした。
足利義昭が頼りにしている戦国大名を征伐する形で足利義昭の謀略に対抗しようと考え、朝倉攻めを実施することになったのです。