織田信長と歴史

【石山本願寺との戦い】織田信長が10年かかった壮絶な戦い(中編)

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石山合戦

先日の記事で織田信長が石山本願寺と戦うことになった背景をお伝えしましたが、今回は織田信長と石山本願寺勢とはじまった戦いについてお伝えします。

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織田信長と石山本願寺との戦い

朝倉義景、浅井長政連合軍の応援による「志賀の陣」

石山本願寺を囲うような布陣を敷いた織田信長に対し、顕如は石山本願寺として元亀元年(1570年)9月12日に挙兵します。

9月16日には姉川の戦いで織田信長に大ダメージを受けた朝倉義景、浅井長政が石山本願寺と連絡をとりつつ3万の兵を挙げて近江の坂本口に至り、9月21日には醍醐/山科あたりにまで兵を進めています。

織田信長はいったん石山本願寺の包囲網を解き、野田・福島攻めを諦めて京に戻り、浅井長政、朝倉義景連合軍と戦う戦術をとっています。

これは「志賀の陣」と呼ばれています。

伊勢長島の一向一揆との戦いの序盤は形成不利だった織田信長

織田信長

その頃、顕如の指示をうけた伊勢長島の一向一揆が蜂起し、織田信長の情勢は悪くなります。

織田信長が志賀の陣で動きが制限されているのを知った伊勢長島の一向一揆は、織田信長の弟で尾張小木江城を守っていた織田信興を攻め、織田信興を切腹させ城も落とします。

織田信長は救援を出すこともできず実の弟を見殺しにする形になってしまったのが、11月21日のことでした。

どうしようもなくなった織田信長は、天皇と将軍を動かし石山本願寺と浅井長政、朝倉義景連合軍との講和にこぎつけています。

なかなか思い通りいかなかった伊勢長島の一向一揆攻略

一向一揆と石山合戦 (戦争の日本史 14)

 

その後の織田信長は、戦力を集め1つずつ敵を打ち破る戦術をとるようになり、まずは伊勢長島の一向一揆を標的にします。

1571年(元亀2年)5月には織田信長は織田信興の弔い合戦を兼ねて伊勢長島の一向一揆を攻めますが、逆に一向一揆の鉄砲隊に反撃されかなりの打撃を受けます。

このときに柴田勝家が負傷し氏家ト全が戦死する、手痛い結果を受けます。

織田信長が伊勢長島の一向一揆を制圧したのは天正2年(1574年)のことで、篠橋、大鳥居、尾長島、中江、長島の5つの城に籠城する一向一揆勢に対し猛攻撃を実施し、まず篠橋城の一向一揆勢が長島城に追いやられ、長島城が降伏した後に一向一揆勢は大坂やその他に逃げていきました。

最後まで抵抗したのが中江城と尾長島城の2つの城で、織田信長はこの城の周囲に逃げられないように何重にも柵をめぐらして四方から火をかけています。

城内にいた男女2万の一向一揆勢はすべて焼き殺され、石山合戦の中で一番織田信長を悩ませていた伊勢長島の一向一揆勢は織田信長の軍門に下りました。

 まとめ

石山本願寺側はうまく浅井長政、朝倉義景と連携し一向一揆を各地で蜂起させることで織田信長の軍勢を分断することに成功、大きな打撃を与えることができました。

かなりうまく言っていた石山本願寺の戦略ですが、中江城と尾長島城にいた2万もの人間を火あぶりにしてしまう織田信長の意思の強さには驚きを隠せなかったに違いありません。

このあたりで流れは織田信長に傾いていましたが、、

続きは続編にて。

 

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