信長公記によると、織田信長は1569年に京都と堺で金銀や米の代わりに名物(めいぶつ:有名な茶器や絵)を強制的に収集しています。
単に価値のある名物を収集するコレクターとしての側面もありますが、織田信長が名物を集めていた理由はそれだけではありませんでした。
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織田信長が名物狩りをする背景を考えてみた
織田信長はどのようなものを収集していた?
織田信長が入手したものは、牧谿(もっけい:水墨画家。牧谿の絵は多くが国宝や重要文化財になっています)や玉澗(ぎょっかん:中国の画家。雪舟などの水墨画家に影響を与えた)の絵や付藻茄子の茶入れ(つくもなすの茶入れ:足利義満が愛用していた茶入れ。代々足利将軍家に伝わる)のようにすでに名物として高い評価を得ていたものがあります。
また、織田信長が自分の好みにあったものもコレクションしています。
織田信長はどうして名物の価値を知った?
織田信長が足利義昭を奉じて上洛した際、今井宗久らに【名物の茶器】を献上され、その際に「名物の価値」を教えてもらったのがきっかけだと考えられています。
名物の素晴らしさを織田信長が把握し、それをコレクションすることに喜びを見出すようになったようです。
織田信長の凄いところは、それだけではなく戦国武将の価値観を大きく変える政治的手法に「価値のある名物」を利用しようと考えたことです。
織田信長が名物を使い戦国武将の価値観を変えた
戦国武将は戦で武功を上げるのが一番のステータスですが、政治力に優れていた織田信長は名物を所有しているかどうかを武将の大きなステータスにしようと考えていました。
理由は、「織田信長自身が一番名物をコレクションすることができる立場だったから」です。
例えば、ガソリンの元となる原油の価格は産油国が限られるので、産油国の政治的な状況変化によって高騰することがあります。
車や多くの化学製品が原油を必要としているから価値があるのであって、織田信長の時代に原油の価値など全くありません。
これと同じように、織田信長に多くの名物が集まる状況だったので、名物を戦国大名のステータスシンボルにしてしまえば、織田信長が自由に戦国大名をコントロールできると考えたようです。
戦国大名に対して論功に対して国や領土を与えるだけでなく、「価値のある名物」を与えることで信頼の深さを伝える方向性に価値観を変えたのです。
国や領土というのは目に見えず、下手に与えると力をつける武将が出てくる可能性がありますが、名物であればコントロールしやすかったのかもしれませんね。