1570年4月、織田信長は越前の朝倉氏を攻めるため京都から近江の坂本、琵琶湖の西を北上し朝倉側の白を次々と攻め落としていました。
織田信長の思惑どおりいっていた朝倉攻めですが、織田信長の妹「お市」を嫁に出した浅井長政がまさかの裏切りをし、織田信長は敗走します。
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浅井長政はなぜ織田信長を裏切ったのか?
元々は織田信長が約束を破った
元は織田信長が浅井長政と結んだ約束を破っています。
織田信長の妹お市と結婚した際に、「浅井長政と親交のあった朝倉氏を織田信長が攻めない」というものです。
約束を破られたことで浅井長政はかなり迷ったと考えられますが、朝倉氏を選んだようです。
背景は、織田信長との同盟に元々反対していた家臣達が多く、かなり強く織田信長に対し進撃することを薦めたようです。
浅井長政はあまり気乗りしていなかったかもしれません。
その証拠としては、敦賀への進軍に主力である武将達、浅井長政本人も参加していない記録があります。
逃走の殿(しんがり)は豊臣秀吉(木下藤吉郎)
越前の金ケ崎城を攻め落としていた織田信長は、最初浅井長政が裏切ったことを信じなかったらしいです。
ところが、情報がいくつも入りいよいよ本当のことのようだ、となった織田信長は一目散に逃げます。
ここで殿(しんがり)を務めたのは豊臣秀吉(木下藤吉郎)でした。
ほとんど絶望的な状態での殿(しんがり)は、豊臣秀吉本人をはじめ、誰もが討ち死にを予想していましたが、運良く生き延びることができます。
この捨て身の勇気によって、豊臣秀吉は織田信長の信頼を勝ち得ることに成功しました。
織田信長を暗殺しそこねた狙撃手「杉谷善住坊」
織田信長の逃走経路「若桜街道」は京都から若狭へ抜ける最短ルートで、途中には室町幕府に仕える「朽木氏」という武士の本拠地がありました。
この朽木氏の助けもかり、織田信長はなんとか京都へ戻ることができたのです。
すぐに体制を整えるために、京都から本拠地の美濃の岐阜城へ戻ることにしたのですが、ここで絶体絶命の危機にあいます。
杉谷善住坊という甲賀忍者に鉄砲で狙撃されたのです。
このときの怒りはすさまじく、後に杉谷善住坊を捕まえた際には残酷な処刑方法をとりました。
切れ味の悪い竹で出来た鋸で、少しずつ首を切っていく、というものです。
激しい痛みを味わいながら少しずつ死んでいく、という残酷な方法です。
どうやら杉谷善住坊は6日間も苦しんだようですが、織田信長の激しい怒りが伝わってきます。
まとめ
織田信長の朝倉攻めは、事前に浅井長政に報告されていなかったようですが、何故そのようなことが起きたのか。
これは織田信長が「大うつけ」を自分で演じ味方をも騙していたように、他人を信じていなかったことが理由かもしれません。
戦国時代は諜報のプロフェッショナル「忍者」暗躍していましたから、どこから情報が漏れるか分からなかったから慎重にならざるを得ない状況もあったかもしれません。