織田信長(おだのぶなが)は誰でも歴史の教科書で習う偉人(いじん:歴史に残る大きなことをした人)です。
ただ、有名でありすぎるため織田信長のイメージが固められてしまい、偏った織田信長像が出来ている人も多いのではないでしょうか。
織田信長は何をした人?
織田信長は国が数多く存在していたため混乱していた世の中を自分がトップになることで平和にしようと考え実行し、もう少しでほぼ全ての国を統一できる、というところで亡くなった戦国時代の武将(ぶしょう:お殿さま)です。
豊臣秀吉は織田信長の部下
織田信長の部下で有名な人は豊臣秀吉(とよとみひでよし)です。
冬の寒い日に、織田信長の草履(ぞうり)をお腹の中で暖めていたお話は有名ですね。
徳川家康は織田信長の幼なじみ
織田信長と深い友好関係にあった人は徳川幕府を作った徳川家康(とくがわいえやす)です。
徳川家康と織田信長は、小さな頃に1年ほど同じ家で育った関係があり、国と国とで同盟(どうめい:協力するあいだがら)を結びました。
豊臣秀吉も徳川家康も、織田信長が目の前にしていた天下統一(ほぼすべての国を統一する)ことができたと考えられます。
織田信長は必要なものが分かる名人
織田信長は、自由に商売ができなかった状況を嫌がり、「楽市・楽座(らくいち・らくざ)」という自由に商売をしていいよ、という方法を積極的に推進しました。
自由に商売ができるようになれば、それまで才能を活かせなかった商売上手な人が集まりにぎやかにな町ができます。
織田信長は鉄砲を実戦で使った
織田信長は、ほかのお殿様よりも早く鉄砲を戦(いくさ:たたかい)に使ったと言われていますが、人が集まりにぎやかになった町はお金がたくさん使われますので、そのお金を元に鉄砲を買ったのではないか、と言われています。
さらに、特定の場所に人が集まる事で管理しやすい状況になったことも、他の国を攻めることに集中しやすい環境になっていたと考えられます。
織田信長は”そのときに必要なものが何か”を想像するする名人だったのですね。
織田信長は残虐(ざんぎゃく)な人?
織田信長は情け容赦(ようしゃ)ない人だというイメージがついています。
確かに一向一揆(いっこういっき:宗教の信者がおこしたデモ、暴動)などでは戦った相手を全員処刑していますので、そのように感じてしまうと思います。
実は織田信長は女性などには優しく、戦(いくさ)でなければとても常識的な人だったようです。
ドラマや映画のイメージで怖い人だと思われがちな織田信長ですが、実際のところはそうでもなかったと考えられます。
織田信長の情報を分かり易くアップしていきます
このブログは、10才の子供でも織田信長のことが分かるよう詳しく解説していきたいと考えています。
できるだけ難しい言葉を使わないように意識しますし、難しい言葉は解説を入れます。
分かる人にとっては無駄だと感じるかもしれませんが、みなさんにとって分かり易いブログにしたいので、これからもよろしくお願いします。