織田信長は桶狭間の戦いで今川義元を奇襲により襲い勝利していますが、それ以降は奇襲を行っていません。
相手より何倍もの兵力でなければ攻めず、強い相手とは戦わなかったのです。
桶狭間以降これだけ慎重になったということは、今川義元の奇襲作戦が幸運の積み重ねで得た勝利だということが分かりますね。
参考記事:織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を破る大金星を上げた3つの理由
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織田信長の武田信玄と上杉謙信への敬遠作戦
武田信玄への音物(いんもつ:贈り物、賄賂)作戦
織田信長は武田信玄への贈答作戦を今川義元を破った後から実施しています。
それだけではなく、兵馬の法、政治の道の先輩として教えを仰ぎたいともいっています。
武田信玄はそれまで特に気に求めていなかったようですが、あまりにも贈り物が届くので音物を調査しました。
中身ではなく音物を収めてきた漆塗りの外箱を調べたようです。
というのも、外箱を美しく飾ることは相手を敬うことにつながり、礼儀とされていたからです。
すべての外箱は漆で塗られたすばらしい箱だったことで、武田信玄は織田信長に好意をもったようです。
武田信玄が家臣に対し「織田信長の様子をみていたが、音物にはかなり気を使い外箱まで念をいれている。人の心は音物をみればわかるし、収めた包みを見ればなおさらだ。一度や二度は念を入れても3度は続かないから、織田信長の気持ちは本物だ」といった言葉を伝えたと言われています。
上杉謙信の挑発には乗らずに低姿勢作戦
上杉謙信は、織田信長が将軍「足利義昭」を追放し京都で好き勝手行っている織田信長が頭にきたようで、「近く上洛するからいざ雌雄を決せん(京都にいくから首洗ってまっとけ!)」と伝えてきました。
織田信長の返事は、「戦うのはもってのほかです。もし上杉謙信公が出馬されるなら、お迎えにあがって馬の口をとりますので」とかなりへりくだった返答をしています。
織田信長の強者と戦わない作戦まとめ
当時の武田信玄、上杉謙信は強大な力をもっており、織田信長はこの二人と”この時点で”戦うことは避けたかったことだったことがよく分かります。
また、織田信長は戦況が不利なら見てくれを気にせず退却しています。
浅井長政の敵対時には命を落としそうになり、命からがら逃げ帰ってきています。
生き残る可能性があれば、どんな手を使っても逃げ延びることを優先していたことが分かります。
織田信長は傲慢でプライドが高い人でしたが、目標達成(天下統一)のためには外見を気にしない勇気(?)も持っていたのですね。