斎藤道三(さいとうどうざん)は美濃の戦国大名で織田信長の嫁、濃姫(のうひめ)の父親です。
下克上の戦国大名として「蝮(まむし)の道三」とも呼ばれている斎藤道三と織田信長の関係性を紐解いてみます。
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織田信長と斎藤道三の関係性
織田信長に娘を嫁に出した理由
織田信長が斎藤道三の娘である濃姫(帰蝶:きちょう)が嫁いだのは織田信長が15歳のときでした。
父親の織田信秀は尾張の実力者として名前を轟かせ、尾張統一に奮闘しながら三河、駿河、美濃との戦いに明け暮れていました。
美濃の戦国大名である斎藤道三が娘である濃姫を嫁として織田信長に渡したことは政略結婚で、政治的なものでした。
1548年、織田信長の教育係として有名な平手政秀の努力により、尾張の織田信秀と美濃の斎藤道三と講和(戦が終了したことの合意)が成立しました。
講和の条件として濃姫を織田信長に嫁がせています。
織田信長の意向はここにはなく、父親である織田信秀の政治に利用された結婚でした。
斎藤道三が息子の義龍に討たれた時の織田信長
政略結婚で織田信長の義理の父となった斎藤道三ですが、その後よき理解者となり織田信長をバックアップしていたと言われます。
織田信長を認めたエピソードとして、初めて会見したときの話が有名ですね。
大うつけ(大バカもの)として名前を知られていた織田信長と会う前に、密かに織田信長の体裁をチェックしていた斎藤道三。
噂通りのおかしな格好で城下を歩く織田信長を見た斎藤道三は、「やはりただの大バカものか」と考え、会見では平服(普段着)で臨みましたが、織田信長は立派な正装で応対し斎藤道三がとても驚いた、というエピソードです。
このエピソードにより、織田信長に自分の息子たちはひれ伏すことになるかもしれない、と斎藤道三は悟ったと言われています。
美濃を集中に治めていた斎藤道三ですが、嫡子(家督を継ぐもの)である斎藤義龍と不仲になり戦で負けます。
この戦では、織田信長が斎藤道三側に援軍を送っています。
残念ながら援軍は間に合いませんでしたが、他国の家督争いに軍勢を送ることはとても珍しいことでしたので、織田信長と斎藤道三とは単なる義理の父と息子といった関係性以上に深いものを感じます。
まとめ
斎藤道三の娘である濃姫と織田信長が結婚したのは、織田信長が15歳のとき。
その頃から織田信長を認めていた斎藤道三は、織田信秀が織田信長18歳のときに他界したこともあり、織田信長に対して自分が下克上を果たし美濃を治めてきた帝王学を織田信長に授けていた可能性もあります。
「楽市楽座」や「関所の撤廃」も斎藤道三が先に実施した施策なので、織田信長が斎藤道三の帝王学を実行に移していた、と考えることもできますね。
事実としては残っていない歴史を想像するのって、楽しいですね!