10年かかった石山本願寺の戦い。第三部の最後です!
【石山本願寺との戦い】織田信長が10年かかった壮絶な戦い(前編)
【石山本願寺との戦い】織田信長が10年かかった壮絶な戦い(中編)
石山本願寺との和議と再戦
1575年(天正3年)10月、顕如は和議を申し入れてきました。
これで石山本願寺との戦いが終わったかと思われましたが、1576年(天正4年)4月14日には顕如は足利義昭、毛利輝元らと結び、織田信長に再度戦いを挑んできたのです。
5月には織田信長自身も出馬し、天王寺あたりで一進一退の戦いが繰り広げられていました。
石山本願寺の籠城
織田信長が包囲する形で石山本願寺は籠城することに。
石山本願寺は今の大阪城あたりにあり、四方を川に囲まれている立地で、寺とはいっても難攻不落の城のため織田信長でも攻め落とすことが難しいものでした。
毛利水軍と織田水軍の戦い
兵糧のなくなった石山本願寺に毛利輝元の水軍が船で兵糧を送り込もうとしたために織田信長の水軍と大阪湾で戦っています。
当時の毛利水軍はとても強く、織田信長の水軍は負けています。
これに対し、織田信長はとても大きな鉄板で装甲した軍艦を製作し、毛利水軍を破ったため兵糧を入れることができなくなりました。
雑賀一揆
石山本願寺は、あてにしていた北陸からの支援が絶たれ、紀州の雑賀に頼るしかない状況となっていました。
その雑賀では1577年2月に紀伊の畠山貞政が雑賀の一向宗門徒と根来寺の僧兵などと挙兵しています。
石山本願寺の最後の支援団体をつぶす機会がやってきたと、織田信長は自ら出陣し、1577年3月15日には雑賀一揆を討伐します。
石山本願寺の降伏
1579年(天正7年)8月、加賀国を柴田勝家が制圧したことで、石山本願寺の領国も完全に抑えることに成功しました。
完全に孤立する形になった石山本願寺は1579年12月25日に講和という形で決着しました。
実際には石山本願寺の顕如が織田信長に降伏です。
石山本願寺との戦いまとめ
織田信長が石山本願寺と10年もの間戦い続け、徹底的につぶした背景としては【本願寺王国】が確立されていたためです。
織田信長が目指した世界は武士による当地国家である日本。
宗教団体が治める国があることを良しとしなかったのですね。
石山本願寺の戦いで織田信長が石山本願寺を倒さなかったら、武士による支配の体制ではなく、宗教団体が支配する国と武士の支配国が入り乱れた、現代の日本のような統一国家は誕生していなかった可能性が高いです。
そういった意味でも、織田信長が成し遂げたことの凄さを感じますね。