織田信長が美濃攻略で重要視した場所は【墨俣(すのまた)】です。
墨俣(すのまた)は美濃と尾張の国境に位置し交通の上で重要な地域だけではなく軍事上の拠点でもあったため、斎藤側と織田信長側でのせめぎ合いが起こった場所です。
この場所には両軍の妨害があり城を作ることが困難でしたが、豊臣秀吉が【墨俣一夜城】を数日で築城します。
このニュースは斎藤側にとって相当インパクトがあり、織田信長が美濃を手に入れる布石となりました。
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墨俣一夜城を築城した豊臣秀吉(木下藤吉郎秀吉)
墨俣は低湿地で城を作るのに適していなかったといわれています。
さらに斎藤龍興側としても国境に近いこの場所で城を建てられたら大変なことは分かっているので、そのようなそぶりを織田信長側が起こしたらすぐさま取り壊すため戦を仕掛けていました。
墨俣一夜城を築城できた理由
織田信長の重臣である佐久間信盛や柴田勝家さえも墨俣城の築城に失敗していました。
これを豊臣秀吉(木下藤吉郎秀吉)が築城できたのは、近隣の中立土豪を活用できたことです。
土豪(どごう)とは、侍でもあり百姓でもあるという侍として考えると下の身分のものを指します。
豊臣秀吉は農民出身とも言われているので、土豪のような身分の武士の気持ちを掴まえ味方をしてもらうための術を知っていたのでしょう。
周辺地域の土豪をうまく味方としたことで、美濃側の土豪には斎藤龍興側の猛攻に耐える部隊としての役割を任せ、尾張側の土豪には墨俣城を築城の力を借りたのではないでしょうか。
このような準備の上で実施したため、築城はうまくいき一晩ではないですが数日で墨俣城を築城できたと言われています。
織田信長の美濃攻略
この状況を斎藤龍興側にはどう写ったでしょうか?
佐久間信盛と柴田勝家の築城を拒み意気揚々としていたところ、地元の土豪をうまく味方につけた豊臣秀吉があっというまに墨俣城を築城した様子は、間違いなく脅威に感じたでしょう。
さらに、斎藤龍興の評判はあまりよろしくなかったため、家臣の間でも揺れ動いていた時期と重なります。
1564年(永禄7年)には、斎藤龍興の家臣だった「竹中半兵衛重治(後に豊臣秀吉に仕えた軍師、竹中半兵衛)」が稲葉山城を奪っています。
このときは、やがて斎藤龍興に稲葉山城を返していますが、斎藤龍興を取り巻く家臣たちの気持ちがゆらいでいたことが分かりますね。
それから3年の後、1567年(永禄10年)には斎藤龍興の重臣で美濃三人衆と言われた「稲葉伊予守」「氏家ト全」「安藤伊賀守」の3人が寝返り、稲葉山城の斎藤龍興を攻め、斎藤龍興は伊勢長島へ逃亡することになります。
これにより、とうとう織田信長が美濃を手に入れることになったのです。