山内一豊は「功名が辻」という題名の司馬遼太郎小説の主人公であり、織田信長の部下だった実在の人物です。
ただ、信長公記でも触れられず、「功名が辻」がなかったら世間に広く知られることはなかったかもしれない、そんな武将です。
なぜ小説の題材になったかというと、山内一豊の妻「千代」がとても頭がよく、これといってとりえのない山内一豊が出世するための助けをいろいろとおこなった内助の功ぶりがすさまじかったからです。
なにせ、ただの牢人だった山内一豊が土佐一国の主になったのですから、すばらしい立身出世です。
そんな山内一豊をご紹介します。
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山内一豊とはどのような人物だったのか?
司馬遼太郎の功名が辻ではパッとしない山内一豊
実際の山内一豊とは違った設定かもしれませんが、司馬遼太郎の小説「功名が辻」では山内一豊はこれといって才能のない、誠実だけが取り柄の男として描かれています。
山内一豊の父親は織田信長と対立していた岩倉織田氏の家老で、織田信長と戦ったものの破れ戦死しています。
なので、山内一豊にとって織田信長は仇敵ですが、牢人となった身を拾ってもらい織田信長の家来となります。
姉川の戦いで初陣した山内一豊は、1573年の刀根坂の戦いで功績を残すと、400石の領地をいただいています。
この戦いでは、「絶対に手柄をあげる」一心で敵将の三段崎勘右衛門と一騎打ちし、重傷を負いながらも打ち取ります。
山内一豊はここぞ、というときに力を発揮するタイプだったようですね。
妻千代の機転により出世コースへ
あるとき織田信長が軍事パレードを行うということを聞いた千代は、結婚するときにもってきたお金を出して、山内一豊のために名馬を用意します。
名馬に乗った山内一豊はパレードの中で大いに目立ち、織田信長からお褒めの言葉をいただいたと言われています。
これにより織田信長から目をかけてもらうようになり、織田信長から豊臣秀吉の部下になるように命令されますが、これは勢いのあった豊臣秀吉の部下になることが出世への最短距離だった可能性があります。
徳川家康に気に入られ土佐の領主になった山内一豊
織田信長が本能寺の変で討ち取られ、豊臣秀吉が病死した後の関が原の戦いでは、山内一豊は真っ先に徳川家康の東軍に味方することを表明しています。
徳川家康の勝利のためなら、自分の領地を差し出すとまで宣言したことが徳川家康の感動を産み、東軍の勝利に終わった後に目立った功績がなかった山内一豊に対し土佐20万石を与えられ、一国一城の主となりました。
山内一豊のまとめ
立身出世物語を実現させた山内一豊。
その影には妻である千代の内助の功が光っていたのは間違いなさそうです。
ただ、「功名が辻」に描かれているような愚鈍な武将ではなく、愚直ながらも合戦で勇敢な姿を見せる山内一豊は、なかなかの人物だったのではないでしょうか。