柴田勝家は織田家に古くから仕えていた家臣ですが、織田信長のことは「大うつけ」として相手にしていませんでした。
織田信長と戦をしてその考えを改め、織田信長に忠誠を誓います。
織田信長が行おうとしていた改革を理解したものと思いますが、一戦を交えることでそのことに気がついた柴田勝家は凄い人物だったことが分かります。
古くから織田家に仕えていた柴田勝家
織田信秀が病死すると、織田信長の弟「織田信行」につき、織田信長を倒し織田信行を織田家の当主に座らせようとします。
しかし、織田信長と戦い敗れたことで考え方を改め、織田信長に忠義をつくすようになります。
織田信長も柴田勝家の能力を高く評価し、その罪をすべて不問とし重用しています。
柴田勝家の戦績
柴田勝家は「浅井長政、朝倉義景との戦い」「伊勢長島の一向一揆討伐」「長篠の戦い」などに参加しすばらしい戦果をあげます。
1575年(天正三年)には越前で起こった一向一揆をしずめた功績により49万石の領地を織田信長から与えられます。
さらに、前田利家や佐々成政などをしたがえ、北陸地方方面の司令官として任命されています。
1577年(天正五年)の手取川の戦いでは、上杉謙信に敗れましたが上杉謙信がなくなると反撃し、加賀・能登・越中をうばいとっています。
織田信長が本能寺の変で明智光秀に討たれた報を越中で知った柴田勝家は、織田信長のかたきを討とうと出陣したものの上杉景勝の攻撃にあって身動きが取れず。
清州会議で運命が決まった
織田信長の後継者を決めるために実施された「清州会議」。
三谷幸喜監督が脚本監督し映画になったので話題になりましたね。
柴田勝家は三男の織田信孝をかつぎますが、豊臣秀吉(羽柴秀吉)の発言力が強かったため、柴田勝家の主張は認められませんでした。
柴田勝家は織田家を支える気持ちを見せるため、織田信長の妹「お市の方」を正室に迎えます。
織田信孝や滝川一益と手を組み、賤ヶ岳の戦いにもちこみますが佐久間盛政の命令無視などにより戦況が不利になります。
さらに、もともと豊臣秀吉(羽柴秀吉)と仲が良かった前田利家などの武将3人が突然引き上げてしまったのです。
この裏切りなどにより柴田勝家は敗走し、北の庄城に籠城した後で自刃して亡くなっています。
勇壮な戦人は最後まで戦って61年の生涯を閉じました。