織田信長が父親の織田信秀が亡くなり家督を継いだ一年後、坂井大膳や川尻与一らが織田信秀の一族が拠る松葉城、深田城に攻め入ってきました。
これを聞いた織田信長は、翌日に出陣し坂井大膳らを追い返すことに成功したのです。
たった一日で出撃してきた織田信長の迅速さに坂井大膳らは驚きを隠せませんでした。
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織田信長の兵は金で雇われたゴロツキばかり
織田信秀病死後の織田信長
織田信長が家督を継ぎましたが、全てを引き継いだのではなく弟の織田信行と分割されました。
下尾張の西側を織田信長、東側を織田信行が分け与えられましたが、東側が昔からの田畑が多く恵まれた土地でにあり、西側は新開の田畑や津島の河港を含んでいるのでお金が入ってくる状況でした。
織田信長が行った非常識は、入ってきたお金を父親の織田信秀のように各地の城主や豪族に分けるのではなく、そのお金で人を雇い兵にしたことです。
戦国時代の組織について
戦国時代の頃、普通の人間は何かしらの組織に組み込まれていました。
武士はもちろんのこと、百姓は村落共同体に組み込まれ、商人は同業組合である座に入っていました。
僧侶は宗派と寺院、神主は神社といった何らかの組織に属していました。
組織に入っていれば一生安泰なので、なかなか簡単にはそこから抜けだそうとしませんでした。
織田信長の募集に応募してきた人たち
なので、織田信長がお金で人を雇うといっても、普通の人が応募してくることはありません。
一日二食と月に十文のお金につられてやってくるのは、主が戦で敗れたので行くあてのない牢人、村を追われてしまった流民、座に入らず闇商売をやっている闇商人、乞食やゴロツキといった者で、ガラが悪く品もない人間ばかり。
まともなものを食べず生活も不規則だから体格も貧弱で常識も乏しいものばかりでしょう。
織田信長はそのような人間を三百人も那古屋城内で養いました。
そういった人間は「小屋」に住まわされていたので、「小屋の者」と言われ織田信長の重臣たちから煙たがられていました。
織田信長の教育係「平手政秀」の提言
織田信長の教育係で常識人の平手政秀は
「このようなことはおやめください。
父上同様にお金を各将に分ければ戦の時には武将が各村の働き盛りを連れてきくれるはずです。
訳の分からないゴロツキを雇っても、戦の役にはたちません。」
この頃は武将が兵を常に養っている訳ではなく、ほとんどの戦力は百姓だったのです。
「兵ががんばるのは、戦国大名が好きな訳でも、使命に燃えている訳でもありません。
戦のあとで村に帰ったとき、一番に逃げたのはあいつだ、真っ先に崩れたのはあの村の衆だ、といわれることが怖いからです。
帰る故郷のない者など、戦になれば皆逃げ散るのは明らかです。」
このように平手政秀は織田信長に進言したと言われています。
織田信長の描いていたビジョン
そんな「戦の役にたたない」ゴロツキの集まりを織田信長が求めた理由は「いつでもいつまででも戦ができる」からです。
一人ひとりが弱いことなど百も承知で、周囲の反対や離反にも負けずに傭兵を雇い続け信念を貫いた結果が、天下人となれた一つの要因だと考えられます。
織田信長は今まで見えていなかったことを想像し、実行に移すことができた天才です。