織田信長の年表

織田信長が【小牧山城築城】で見せた巧みな心理操作

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小牧山城

織田信長は桶狭間で東海一の弓取り「今川義元」を破り、徳川家康(当時は松平元康)と同盟を組んでから小牧山城を築城します。

その頃の織田信長周辺に起きた出来事をまとめてみます。

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織田信長の美濃攻略

斎藤義龍の病死

1561年(永禄4年)に実父である斎藤道三を破り下克上を成し遂げた斎藤義龍が死に、そのあとを子の斎藤龍興が家督を嗣ぎます。

斎藤龍興の病死には諸説あるのですが、世間では「憑き物が付いて、憑き物に殺された」といううわさがながれたそうです。

この頃は「忍(しのび:忍者)」がデマなどを流し、国民の不安を煽る戦国大名が増えていた頃なので、もしかしたら織田信長が美濃侵攻のために忍を使って流したデマかもしれません。

苦戦する織田信長

戦に強かった斎藤義龍が病死したタイミングでどんどん戦をしかけます。

1561年(永禄4年)5月13日に、兵をにし美濃に送り込み、安八郡の森部あたりで斎藤方との戦いがくりひろげられ、6月下旬にも小口を攻撃しています。

翌年の1562年(永禄5年)5月3日には、織田信長勢は美濃の本巣郡軽海まで兵を進め、そこで斎藤龍興と戦っています。

その翌年の1563年(永禄6年)春に、織田信長は稲葉山城の斎藤龍興を攻めますが、何も得ることなく退却しています。

織田信長が小牧山城築城時に行った心理操作

織田信長は美濃攻略の本拠地ともなる「小牧山城」に城を移します。

以前の記事「織田信長の年表で見る天下統一への展望」で織田信長は生涯で4回拠点となる城を移したと書きましたが、これは普通の戦国大名ではありえないことでした。

普通の戦国大名は、生涯一つの拠点を中心とし領国を増やしていく方法をとっていました。

この小牧山城築城では、織田信長ならではの心理操作を知ることができます。

織田信長は直臣を引き連れて二の宮山という山に登り、突然、「ここに城を築いて家臣を山の谷間などに住まわせる」というトンデモ発言をします。

これには家臣たちは驚き、「おいおい、殿やめてくれ~」と内心思っていました。

 

トンデモ発言にはきちんと理由があり、それまでの居城【清洲城】がある清洲は尾張の中枢で平地にあり良い場所だったため、直臣たちはそこを離れて暮らすことに反対の声をあげることを織田信長は予想していました。

なので、あえて二の宮山というありえない場所に築城する、というトンデモ発言をしておいて、実際に小牧山城を築城するときに「まあ、あの二の宮山よりはいいかー」と家臣たちが考えるように仕向けた訳です。

このようなエピソードもあり、1563年7月には居城を清洲城から小牧山城に移し、美濃攻略の準備は整いました。

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