織田信長の年表

【石山本願寺との戦い】織田信長が10年かかった壮絶な戦い(前編)

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石山本願寺

元亀元年6月28日の姉川の戦い(浅井長政、朝倉義景連合との戦い)のあと、織田信長が岐阜に戻ったのをみた三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)は、7月に機内での勢力挽回をねらって1万3000の兵を率いて阿波から和泉に移動。

その後、野田、福島の砦を補強して、織田信長に対する反撃の姿勢をとりました。

織田信長が三好三人衆を抑えるため石山合戦ははじまった

織田信長が石山本願寺近くに進軍

織田信長は三好三人衆が石山本願寺や浅井長政、朝倉義景らと結ぶことを懸念して、8月20日に岐阜を出発し、8月25日には淀川を超えて河内の枚方に出馬しています。

織田信長は石山本願寺の法主顕如に対して石山本願寺を破壊してすっかりなくすように要求しつつ、本願寺に近い天王寺に進み、天満宮の森から海老江、川口、神埼、上難波、下難波に布陣をひいています。

顕如とは?

ここででてきた石山本願寺法主の顕如について説明します。

顕如は石山本願寺の第11代法主です。

本願寺は浄土真宗の一派で、顕如の父の時代から進めてきた門徒による一向一揆の掌握をしつつ、管領の細川家や公家衆との縁石関係を深めています。

石山本願寺は今の大阪城にありましたが、経済的にも軍事的にも要所であり、畿内を忠臣に本願寺派の寺を配置していたため、戦国大名のような権力を有するようになっていました。

織田信長と石山本願寺(顕如)との戦いがはじまる

織田信長の布陣はちょうど石山本願寺を包囲する形となっているので、顕如は織田信長に屈するのではなく、織田信長と対決することを決めます。

9月5日、顕如は奇襲門徒に出馬を命じて9月6日には諸国にいる門徒に檄を飛ばし、織田信長に対しての戦いに決起することを命じています。

このときに、

「織田信長に対して戦いに立ち上がらない者は破門する」

と厳しい内容を伝えています。

それだけ蓮如と石山本願寺が、腹をかためて戦いに臨んだことを物語ってます。

石山本願寺について

石山本願寺は堀、塀、土居などを設けて周りを強固にし、武装を固めて防御力をましていったため、次第に城郭化していったと考えられています。

もともとは寺ですが、いつのまにか「摂州第一の名城」と呼ばれるようになり、石山本願寺城とも呼ばれるようになっています。

そもそもなぜ宗教団体がこのような力を備えていったのか、今の時代で考えるとよく分かりませんよね?

戦国時代は「力のあるものが正義」という世界観だったため、宗教団体であっても力があり自治統治能力があれば戦国大名と肩を並べる存在だったと思われます。

それを織田信長が嫌ったのかもしれませんね。

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